これはもう20年以上も昔の話だ。
ポスティングバイトしてる人を見て、人生とは何かを考えた。
「チッ、またゴミが入ってやがる」。家路にたどり着いた私は今日もまたポストの中からゴミを取り出し、陰気な面持ちで舌打ちをするのだった。
「ポストにゴミを入れるな!うちのポストはゴミ箱じゃねえぞ」
そう、ゴミとはチラシのことである。貴重な資源を改悪したポスティングチラシには正直うんざりさせられている。
来る日も来る日も私の古く寂れたマンションの集合ポストには大量のチラシがポスティングされており、大切な宛名入りの郵便物もその山に埋もれてしまっている。
おもむろに足元を見ると管理人が設置したポスティング用のごみ箱が。モラルのない住民がぞんざいにチラシを扱い、エントランスに散乱しているではないか。
声を大にして言おう。はっきり言ってポスティングは「迷惑」だ。
なぜなら私はテンパーだ。もう一度言う。短髪の天然パーマだ。ただでさえチリチリ頭に悩まされている私に長髪ゆるふわパーマ系のチラシなど嫌がらせとしか言いようがない。
そもそも私は男だ。中年の男の私にワキ脱毛のチラシはいらない。
世はインターネット時代。知りたい情報はネットで検索するから構わないでほしい。調べれば瞬時に、しかも膨大に情報が得られるこの時代に、全く興味のない関係ないチラシは、ただただ鬱陶しい迷惑なゴミでしかないのだ。
なぜなら99パーセントのポスティングチラシは見向きもせず捨てられているらしいじゃないか。たった1パーセント弱のごくわずかな人にしかリーチできないちっぽけな広告媒体に未来はあるのか。
チラシが要らないならポスティング禁止と表示しろと?「ふざけるな!」
なるほどチラシが必要ないなら「チラシ入れるな」とポストに意思表示すれば済む話しではないかと言う反論か。
確かに。だがちょっと待て、ナ・ニ・ユ・エわざわざ私が自分のポストにあたかもクレーマーのごとく、そのような文言を示さなければいけないのだ、冗談じゃない。
そもそも誰だ、こんなゴミをポスティングしてるのは。みれば青年ではないか。
歳は私よりも若くおそらくハタチそこそこだろう。なにゆえその若さで。もっとまっとうな仕事をしろよ。
話しかけたい衝動に駆られ声をかけてみた。軽蔑の意を込め薄ら笑いで。
「何のために配ってるの?」。
驚がくした。20代とおぼしきその青年はおびえた表情で無言でプレートを差し出してきた。
「障がいがあるので喋る事ができません」。
外見からは全く見分けがつかない、ごく普通の青年だ。会話がままならないが故、就ける仕事も限られてくるのか。
とある別の日、主婦らしき人に同じ質問をした。「お疲れさまです、何のために配っているんですか?」
すると「うるさかったですか、すぐ終わりますから。ポスティングはね、親の介護をしながら配っているんだよ。もっと時間が取れれば普通のパートしたいんだけどね」。
女性は笑顔でそう答えた。
また別の日には手押しカートにチラシを入れて配ってる小柄なおばあちゃんに話しかけてみた。少し前に亡くなった自分の祖母と重なる。
「配布ありがとうございます。ところで何のためにポスティングしてるんですか?」。
おばあちゃん曰く、孫に小遣いをあげたいからだそうだ。年に一度遊びに来る孫に小遣いをあげるのが生きがいだとか。
仕事とは、人生とは、ポスティングとは。
人生いろいろ、人それぞれだ。思いやるつもりなどさらさらない。ただひとつ言えることがある。
彼らに共通していること、それは、彼らは戦っているという事だ。ポスティングという仕事を通して人生と向き合っているのだ。
ただまっすぐポストを見つめ黙々と無機質なチラシを配り続けている。依頼された会社の指示を受けて真面目に何の迷いもなく自分の責任を果たしている。
真夏のうだる暑さの炎天下の中、額からは滝のような汗が流れ落ち、Tシャツを汗だくにしながらがむしゃらに配っている。
真冬はツルツルに凍ったアイスバーン状態の道路をさっそうと歩き、しもやけができた冷たく、かじかんだ手でひたむきに配っている。
果たして自分は彼らほど必死に仕事をし、人生を生きているだろうか。
たかがポスティング、されどポスティング。
真っ当な仕事で人生と戦っている彼らを笑うことなど到底許されないと自己の度量の薄っぺらさに心底腹がたった。
ポスティングに真面目に向き合うすべての方々に。
その後どのくらい長い歳月がたったのだろう。
縁あってポスティング会社で働くこととなる私が、退社までに体験したすべてをこのブログにつづります。
犬に吠えられ、管理人に怒鳴られ、住民にののしられながら働いてきた私の10年間の集大成。
ポスティングの手引きとしてご活用頂けますと幸いでございます。
最後になりますが、ポスティングに真面目に向き合うすべての方々に敬意を表して一言。
「決してチラシはゴミではないのだ」。